ホール施設・設備については貸ホールのご案内をご覧ください。
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当ホールは、岐阜県が1994年に開場したコンサートホールです。
その名は、スペインのサラマンカ(Salamanca)市に由来しています。
サラマンカ市は、ポルトガルとの国境に近くにある
カスティーリャ・イ・レオン州サラマンカ県の県都で、
現存するスペイン最古の大学ともいわれるサラマンカ大学のある街であり、
旧市街全体が世界遺産に登録されている歴史的な都市です。
市中心部にあるサラマンカ大聖堂には、「鳴らずのオルガン」と呼ばれていた
ルネサンス期の古いパイプオルガンがありました。
そのオルガンの修復を岐阜県白川町の辻宏氏が申し出て、
その事業に岐阜県も協力をしました。
オルガンは8ヶ月かかってよみがえり、サラマンカ市民に感動を与えました。
6年後、辻氏がサラマンカホールのために
大聖堂オルガンの特徴をとり入れたパイプオルガンを建造したのです。
このホールがサラマンカの名をいただいていることは、
スペインと日本の友好の証でもあるのです。
オーク(楢)をふんだんに使った柔らかな空気感をたたえる内装、広いステージでも隙のない充足感、そこに立つアーティストの気分を高揚させる空気が充満しています。
708席というクラシック音楽を楽しむには絶好の大きさと残響2.1秒(空席時)という響きがサラマンカホールの特徴です。ピアニッシモの音が力を失わず客席の隅々に伝わり、オーケストラのフォルティッシモも柔らかさを失わない響きで観客を包みます。後方の席でも、音響的にも視覚的にも遠さも感じさせないホールです。
岐阜だけでなく、日本の中でも屈指の音楽堂といえます。
ホワイエ2階の3つの客席扉にはレリーフが設置されています。これは世界最古の大学、サラマンカ大学(中央)と、サラマンカ大聖堂(左右)のレリーフを模したものです。石材に現地のビジャマジョール石を用い、スペインの職人によって三年かけられて作られました。
唐草模様の中に隠れている多くの動物たちや、翼をもった女性、
どくろなどが彫られています。
さながら我々の世界のようです。
レリーフの中には一匹のカエルが彫られており、
このカエルを見つけられたら幸運に巡り合える、といわれています。
さまざまな楽器を持った人が点在し、音楽のある幸福な世界が表現されています。
1958年東京芸術大学器楽科(オルガン専攻)を卒業後、渡米してSchlicker Organ Companyにてオルガン建造を学ぶ。オランダのFlentrop Organ Company勤務の後、1964年、神奈川県座間市に辻オルガンを設立。1976年に工房を岐阜県加茂郡白川町に移転。辻オルガン設立後、2003年にいたるまでに、国内外に81台のオルガンを設置した。歴史的オルガンの修復でも名高く、イタリア・ピストイア市、スペイン・サラマンカ大聖堂での仕事(16世紀のオルガン修復)によって名声を獲得(ピストイア市名誉市民、スペインのイサベル女王勲章エンコミエンダ章を受ける。)これらの修復から古典的建造法を学び、歴史的オルガンの複製も建造している。
岐阜県美術館、岐阜県県民ふれあい会館サラマンカホールに設置されたオルガンは、古典的建造法に基づいて建造された。オルガン建造の一方で音楽活動も積極的に行っており、1973年には日本オルガン研究会を故・松原茂氏らと設立。1985年から白川イタリア音楽アカデミー(白川町、イタリア・ピストイア市共催)を毎年一度開催。1994年には岐阜サラマンカオルガンソサエティーを設立。サラマンカホールを会場に「岐阜スペインオルガン音楽アカデミー(岐阜県県民ふれあい会館、岐阜県スペイン友好協会共催)」を主催。2003年、黄綬褒章受賞。
サラマンカホールの事業方針
県民のみなさんに、良質な音楽文化に触れる機会を様々なかたちで
提供します。
プロアマを問わず地元を中心に、
岐阜県の音楽文化の活性化に
つながる活動を支援します。
音楽を核に岐阜県の文化向上に
寄与します。
貸館事業 | 音楽発表と音楽鑑賞の場を提供し、県民の交流と文化の振興を図ります。 |
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主催公演事業 | 国内外の音楽を紹介し、音楽文化の向上を図ります |
県民協働事業 | 県内の音楽家、音楽団体と協働、支援します。 |
アウトリーチ | ホールの中にとどまらず、県内の求められるところへ音楽をとどけます。 |
企画制作事業 | 新たな音楽芸術を提案、発信します。 |
レジデント事業 | 若い世代の音楽家の育成と、音楽普及活動を行っています。 |
公式マスコットキャラクター紹介
サーラちゃん
岐阜県のコンサートホール・サラマンカホールの妖精、サーラちゃん。
音楽が大好きで、頭が音符の形になっているよ。
スカーフとワンピースは岐阜の豊かな自然をアピールしてるの。
みなさん、サーラちゃんをよろしくね!
友好ホール
辻氏が、ポルトガルのオルガン建造家会議の帰途に立ち寄ったスペイン・サラマンカ大聖堂。大聖堂のオルガンは演奏不能なほど痛み、見るもみすぼらしく、古ぼけた楽器であった。しかし、風を入れ、音の出る数本のパイプを気軽に試したとき、辻氏は驚いた。香りたつ、高貴な音の美しさに体が慄えた。生涯忘れることのない「音」との出会いであった。
辻氏はいつの日かこのオルガンを自分の手で修復することを夢見て、熱心にその可能性を打診したが、国宝級のオルガンを日本人に任せることには反対が多く、許可は下りなかった。待ち続けて10年以上が経ったその日、サラマンカから公式の朗報が入った。辻氏のイタリアでのオルガン修復の経歴が大きく認められ、待ちに待った許可が出たのだ。ただし、巨額な修復資金はすべて日本側が提供するという難しい条件が付いた。
ビクトリアノ神父は大聖堂のオルガンを最も厳しく外部から守ってきた人である。修復したいという辻氏の願いを真っ先に拒絶し、疑い深く見つめた人であった。しかし、毎年面会を重ねるうちに、信頼と理解を深め、修復反対派の前に立って説得をしてくれた。そしてビクトリアノ神父は辻氏に1枚のサイン入りの名刺を渡した。
「私はこの人にオルガンを扱うすべての許可を与える」
――1988年9月9日のことであった。
サントリーホール・岐阜県美術館での寄付コンサート、財界、企業、岐阜県の方々の広い理解と協力で、修復資金の全額が整い、修復が始まった。作業は数百年の間に積もった埃の除去から始まった。辻宏氏らは、目もくらむ高さのオルガン最上部までよじ登った。そこにはキリスト教と木彫多彩色の天使像10体がラッパを持って立っていた。柔らかいハケでそっとほこりを取ると、いたずらっぽい天使の表情が見えた。その指先、爪までが愛らしく彫られピンク色をしていた。辻宏氏は忍耐の作業の中で美しい音を創った職人の技を見て敬服した。
皇后様の陰のご支援美智子皇后にとってスペインは思い出深い国である。1973年の公式訪問時には有名なサラマンカ大学の学生たちがマントを脱いで歩道に敷き歓迎の意を表した。若きプリンセスの美智子様は恐縮しながらその上をお歩きになったというエピソードが人々に語り継がれている。オルガンの修復では皇后さまの陰のご支援が実を結び、元駐スペイン大使の林屋永吉氏も加わり修復実現に向けた大きな力となった。
修復開始から約8ヶ月、1990年3月22日に修復作業が終了。スペイン国営放送と日本のNHKが協力し、修復作業過程を含めた2時間の特別番組を衛星テレビ放送で日本とスペイン語圏各国に同時放送した。
1996年6月、辻宏氏は、スペイン国王ホワン・カルロス1世よりイザベル女王勲章・エンコミエンダ章を授かった。
県民の待望であった音楽専用ホールが岐阜県に建設されることとなり、そのシンボルとして、サラマンカ大聖堂の修復されたルネサンス・オルガンの複製を含む46ストップのオルガンを設置することとなった。
サラマンカホールは2つのまちの交流の証として誕生することとなった。
もう一つの友好のシンボル ─石造レリーフスペイン様式のパイプオルガンと共にサラマンカホールのシンボルとなっている三体の石造レリーフ。モチーフとなったサラマンカ大学とサラマンカ大聖堂の正面入口の石彫りは、銀細工のように華麗で繊細なプラテレスコ(銀細工)様式の代表作である。
石材も現地と同じビジャマジョール石を使い、サラマンカの8人の石の匠が3年の歳月をかけて彫り上げた。
3体の天使像オルガンの上に設置されている3体の天使像は、サラマンカ出身の画家アンヘル・ポヴェーダ夫妻、サラマンカのトマス・ルイス・デ・ヴィクトリア合唱団、白川町ピストイア友好協会、白川町夫人有志、その他の方々により寄贈されたもので、サラマンカ大聖堂のオルガンに飾られている天使像を参考にスペインの工房で制作された。サラマンカのパイプの数は2,997本、これに天使たちが持っている笛を合わせるとちょうど3,000本。天使たちの笛は私たちの心にだけ届く音色を響かせている。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスによる『日本史』記述の中に、「天正9年(1581年)、グレゴリオ・デ・セスペデス神父、日本のパウロ修道士とともに美濃国に布教する」とある。セスペデス神父は1564年にサラマンカでイエズス会に入会、その後、遠い日へ旅立ち、禁教の中で活動し九州で殉教の死を遂げている。イエズス会の神学校は今もサラマンカ大聖堂の向かいにあり、彼は大聖堂のルネサンス・オルガンを聴いていたにちがいない。